2007年03月05日

『ミライノシゴト』(やや実存的な独り言)

久々の更新です。

本日は、以前mixiに投稿した過去の日記を一部編集して、いくつかのエントリをまとめて投下しました。
(ほとんどいないと思うけど)更新を待ってくださっていた方、どうもありがとうございます。
不精な管理人ですが、なんとか暇を見つけて、ブログで言葉を書いていきたいと思います。

普段、mixiの日記とコミュの書き込みチェックと就職サイトで職探しをしていると、2時間3時間があっという間。休みの日は自分を取り戻すのが精一杯で、ブログを書くことまで神経が回らない。そうやって1日1日が過ぎていく。本当、大変です。

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posted by 鉄1 at 16:31| Comment(0) | TrackBack(0) | Daily Dialy | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月03日

池田晶子さんの訃報

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20070303k0000m060051000c.html

ご冥福をお祈りいたします。

 池田晶子さんは、私の好きな哲学に関する本を多数執筆されていた方だった。『帰ってきたソクラテス』とか、『人生のほんとう』で、「そうそう、そうだよな〜〜」、と思う箇所があって、かなり面白かったのを覚えている。哲学のテストでは、『2001年哲学の旅―コンプリート・ガイドブック 』はわかりやすいし、かなり役に立って、しかも古本屋で300円で売っていた(笑・とまあ、これはあまり関係ないな)、在り難い!と思っていた。
 と、まあこのように、私は、池田さんの本を去年ぐらいからよく読んでいたから、驚いた。今から池田さんの本をもっと読もうと思っていたのに、まさか、こんなに早く亡くなられてしまうとは…。
 池田さんの最新の著作、『知ることより考えること』を読んだ時、その文章には病気の兆候はかけらも感じられなかったから、まさかこのような訃報を聞くとは露ほどにも思わなかったのだ。

 けれども、これからは、もう池田さんの本が新しく出版される事はないし、新しく書かれた文章を見ることもできないのだ、と思うと、すごく悲しくなった。
池田さんに限らず、作家が死ぬとはそういう事だと思う。

 もっと広い言い方をすると、人間が死ぬというのはそういうことで、もうその人は私たちと同じ時間を生きる事はないし、更新されることもない。
 肉体とか精神とか、その人の存在そのものががなくなってしまうのも辛いけど、同じ時間を生きる手段がもう存在しない、とわかるのはもっと辛い。

 生きているということは、すぐ近くには居なくても、今この時代に生きて、同じように歩いているのだ、ということでもある。だからこそ貴重なことなんだろう。
posted by 鉄1 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | Daily Dialy | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月11日

大通りを歩く人々の奥底でうずきだす“何か”とは、何だ?

 戦争をしかける国では、ほとんどの人が大通り(※注:この本の中では“みんなが行っている道”というような意味)を歩いているようなものです。
そして、ぬるま湯のような生きている実感が乏しい状態の中で、どこかから正義という名の大義名分が登場して、「あの国に侵略されないために、先手を打ってこちらから攻めましょう」というようなことが言われ始める。
すると戦争は反対だと考えていたはずの人までもが、自分の奥底で疼きだす何かに突き動かされて「平和のためだ、戦争を無くすための戦争だ」というスローガンに乗っかってしまうことも起こってくる。それが戦争なのだろうと思います。


『「普通がいい」という病』 泉谷閑示 ,講談社現代新書,2006年 より。


 ちょうど、メメント・モリ(死を想え)という項目について触れている項に書いてあった文章なのですが…。今の社会の現状を、俯瞰してみるにはとても良い文章だと思いました。

 生きている実感が欲しい、と考える人は昨今たくさんいるのだと思う、自分も含めて。
その手段が、ダンスであったり、恋愛、宗教、創作活動だったり、あるいは戦争であったりもするのだろう、けれども、自分では意識できない“何か”に突き動かされ、流され、戦争に繋がってしまうという、こんな集団心理は実はとても恐ろしいものなのかもしれない。
posted by 鉄1 at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会…Ourselves | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月22日

少し振り返るいささか暗い過去の事

 最近、ふと過去のことを思い出す事がある。

 朝、学校に行くときにふと空を眺めたときとか、放課後に、ちょっと手持ち無沙汰になった時、あるいは寝る前、ベッドのよこのスタンドで自分の好きな文章を読みながら・・・今日もテスト勉強を少しだけさぼりながら(笑・今からまたやります)ふと思い出してみる。

 自分が今まで一番つらかった時期、周囲の人は、たいてい「気にしすぎ」「気の持ちよう」「がんばれ」と言っていた。その言葉は当時の私に対して、精神的なケアにはなっていなかったのだと思う。その言葉を発した人が悪いのではなく、その人が発する言葉そのものに効果がないと言う感じだ。
 簡単に言うと、捻挫をしている患者に風邪薬を処方しても何の効果も無いのと同じことだ。

 周囲の人々が、その言葉をかけてくれたやさしさや心配は切に理解できたし、その意志を無碍のものにするような事はしたくなかった。しかし、それは、当時の私に伝わって、具体的に効力を発揮する言葉というものではなかったのだ。現に、自分が立ち直れていなかったから。

 内実の伴った言葉は人に働きかける。そうでない言葉はただのアナウンスの繰り返しと同じで、決して人を変えない。

 私はそう言われること自体が苦しかった。苦しくて苦しくてどうしようもなかったときに、私が一番大好きな作品と出会った。
 今の自分がなんとか人間としてやっていけてるのは、この作品と出会った事が大きい。あまりべた褒めするのは宗教勧誘のようなので避けたいし、皆が皆この方法で立ち直れるとも思わない。ただ、私の場合はそうだった、というだけだ。

 なぜこの作品が私を変えたのかいまだにわからないけれど、多分それを探すために生きている、のかもしれない。



 苦しかったときに不可解な言葉があった、今でも不可解だと思うのは、

「みんなそうだよ」「みんなそれぐらいがんばってるよ」

………みんなって、どこにいるんだ?
「みんな」って大抵、自分+その周囲の人せいぜい5〜10、20人ぐらい、もしくは自分が属しているサークルとか職場ぐらいの人々でしかないような気がするんですが?

 この言葉を姉から言われたりすると、言いたい事はわかるのだけれども「う〜ん…微妙…」と、不快感が残る。

 それは、何故かというと、これまで自分が学校と折り合いがつかなくて苦しかったこととか、友人関係が苦しかったりしたこと、これまでの自分をつくってきた全てのつらい物事、そして、その出来事からの呪縛をなんとかして自分なりに消化しよう、という思考を獲得するまでに至るまでの、途方もない道のりが、その言葉によって全て無化されてしまうような、無力感を私は覚えた。同時に、この言葉は危険だと思った。

 いや、ほんとに、「みんな」ってどこにいるんだ?

「みんな一緒だからがんばれ」と言いながら、そのくせ、「個性を持て」とか言う人がいっぱいいるんだから、こんな矛盾にさらされたメッセージしかない中で、あるのかないのかもわからない、未来に向かって毎日お尻叩かれてたら、そりゃ矛盾にさいなまれて、若者や子供が鬱になっても仕方がないよな、とも思う。
(そういえば確か、村上龍のエッセイ本の中に、個性化を強制するという矛盾、という題がついたエッセイがあった。我ながらうまいタイトルだな〜、と思ったものだ。本当にそう思う。)

 自分は、少なく見積もっても多分15年ぐらいは先だと思われるが(笑)たとえ子供ができても、この言葉に苦しんできた私は、「みんなやってるからお前も(無批判に)やれ」とは、言いたくない。

 その言葉は、一種の残酷性を帯びていて、その人が自分を肯定する機会すら潰す可能性があるから。



この記事が、同じような経験をした方のなにかの参考になれば、幸いです。
posted by 鉄1 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | MYSELF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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