2007年03月24日

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

 履歴書や、自己PRの文章は、変に定型を求められるせいか、中々うまく行かずに苦労してばかりだけれども、こういう、ブログで文章を書いているときはさながら美しい空気を吸っているときのような、一種の爽快さがある。
 

 昨日、また夜更かしして読んでいた本は、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』という本だ。
『荒野のおおかみ』を読んでから、集中的にヘッセを読みたいと思っていたら、丁度立ち寄った古本屋にあつらえたようにこの本があったので、自己PRなんか忘れて、ついつい浮気してしまった。 s_r.jpg
(この画像は岩波文庫版だけれど、私が読んだのは新潮文庫版だ)
 
 この本は、非常に聡明なハンス少年が勉学の世界に身を投じるのだけれども、そこにある誘惑や、ほとんど苦行にも似た勉強の連続に、はんば引き裂かれそうになりながらも、なんとか耐えて、成果をものにしてく様子が手に取るように伝わってきて、私はそのハンスの姿勢にとても共感してしまった。

 彼は、裏表紙に書かれているまでもなく、純朴で、のどかな自然児だったのだけれども、その彼自身と言っても良いような、のびやかな感性は、勉学によって徐々に窒息していく。
 この事は、小学校の頃には公園で良く遊んでいた男の子達が、小学校低学年、中学年、高学年と経るにつれて、一人減り、二人減り、中学生にもなれば、そんなことをしている奴はただのバカだ、とか、お前はこの先どうするんだ?と言われてしまうような出来事を思い浮かべるとわかりやすいと思う。
 
 話中では、ハンス少年が、なんの屈託もなく自然と遊んでいることのできた蜜月は、14才できっぱりと終わってしまったのだ。少年によってはもっと遅いものもいるし、早いものもいるかもしれない。

 とにもかくにも、蜜月は終わり、ハンス少年は修道院に入るのだが、その修道院の様子が、自分の高校時代にやけに似ている気がした。もちろんそっくりなわけがないのだけれども、かいがいしく世話を焼く過保護な母親や、その横で何を言うでもなくただ手持ち無沙汰にしか出来ない父親とかは、どこかの国の授業参観や、修学旅行の前日を思い出させる。
 私は、高校の頃、母親と教科書を買いに行ったときの事を思い出した。体操服やスリッパ、教科書、美術に使う絵具…あの時、いるのかいらないのかわからないようなものを本当にたくさん購入したと思うのだが、後にも先にも、あれほどたくさん学校関連のものを買ったのは、あれが最後だったと思う。

 それはさておき、修道院での日々は、水面下にひそかな揺れをたたえながら過ぎていくのだが、そこでハンス少年は自由を体現したかのような感じやすい少年と会う。彼は、本来自由であるべきもの、感性の申し子であるような少年だった。自由さを押さえつけていたハンスは、彼に出会うことで、自分が感じていた違和感を明確なものにしてしまったのだと思う。そして、その違和感を“なかったこと”にはできなかった誠実さも、彼は持ち合わせていたのろう。

 その後の彼の凋落ぶりは、修道院のほとんどの教師を落胆させてしまうもので、成績が悪くなったハンスを、彼らは見捨てるというか、見限ってまともに相手にもしなくなってしまう。教師にとっては生徒など、自分の教師としての有能さを証明させるための道具でしかないのかと思ってしまう。おそらく、彼らには彼らなりの判断があったのだろうけれども…。

 話の結末は言わないでおくけど、Wikipediaで、ヘッセのこの作品が日本で最もよく読まれていると言う事を知ると、今の教育が日々、何を生徒に強制し、何を不必要として隅に追いやっているのか、ということの答えがかいま見えるような気がした。
posted by 鉄1 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書/Books | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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