2007年03月07日

ヘルマン・ヘッセ 『荒野のおおかみ』

 『荒野のおおかみ』ヘルマン・ヘッセ,高橋健二訳,新潮文庫,昭和60年発行 第19刷 より。



 この手記は――実際の経験がどんなに多くあるいはどんなに少なくその根底にあるかどうかはどうでもよいことです。――大きな時代の病気を回避や美化によって克服する試みではなく、病気そのものを表現の対象とする試みによって克服する試みです。




 昨日遅くまで私が起きてしまった原因がこの本。
 実に、様々なことを考えさせられた。私にとっては、今年初の、一番面白くてスリリングな小説だったかも?読んでいて、自分の中にも居るおおかみが、この本の中のおおかみと呼応して、一緒に遠吠えしちゃっているような。そんな感じ。der_s_wolf.jpg






 この小説の主軸となっているテーマは、個人と世界の関係だと私は思う。

 主人公、ハリー・ハラーは、お体裁の良い、日々変わらぬ生活を当たり前のものとして生きる、所謂“市民社会”にも溶け込めず、かといって、自堕落で、定型というものの全く存在しない、アウトローとか娼婦の生き方のそれとも同化できない。
 が、作中の後半では、アウトロー気取りのハリーが、むしろ真のアウトローである後者を軽蔑するようなまなざしすら持っていることが明らかになる。

 彼は、いわゆる『狭間』をさまよい続けて生きてきた男なのだが、主人公である、彼の苦悩は、そのまま、現代を生きる私たちにもつながるものではないかと私は思った。

 それは、お行儀のいい“市民”にも収まれず、かと言ってその日暮らしのアウトローにもなれず、というような二律背反性の中で日常をやり過ごさなくてはならない、という点だ。

 日々反復される、平穏な日常を享受する市民たちは、時にアウトローの生き方にも憧れるけど、自分にはそれは出来ないと思っているし、時には、あんな生き方をしても身を滅ぼすだけだ、と思う。
 逆に、アウトローたちは、市民たちのように、決まりきった毎日を生きるぐらいなら、娼婦や楽師になるほうがマシとでもいうような、そんな心境であると思う。

 アウトローも市民も、同じコインの裏表であり、ハリーや、話の後半で、ハリーを文字通り“別世界”へと導くヘルミーネはそのコインの裏表どちらにもなりきれず、身を引き裂かれるような苦悩を味わってきたのだろう。

話の後半で、ハリーが出会うヘルミーネも、ヨーロッパの慄然とするような階級社会が与えた自分の処遇と、その処遇をはるかに超えたところに存在する、彼女自身の精神との間に引き裂かれた存在だった。

 その苦悩に引き裂かれた者同士が出会い、共有する思いは、単なる親愛を超えうる。



 先に言っておくと、この話にわかりやすい結末はない。それは、読者に委ねられている。娯楽的な、起承転結がはっきりしたわかりやすい物語を好む人がこの本を読んだ場合、「ハァ?」と思うだろう。
 けれども、あなたがもし、人生において何らかの答えを求めようとする人なら、あなた自身の思考、さらに言うとすれば、あなた自身の物の見方をを構成している個人的、社会的価値観の成り立ちと、その行く末を考えるとっかかりには、なるかもしれない。

posted by 鉄1 at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書/Books | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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