2007年01月22日

少し振り返るいささか暗い過去の事

 最近、ふと過去のことを思い出す事がある。

 朝、学校に行くときにふと空を眺めたときとか、放課後に、ちょっと手持ち無沙汰になった時、あるいは寝る前、ベッドのよこのスタンドで自分の好きな文章を読みながら・・・今日もテスト勉強を少しだけさぼりながら(笑・今からまたやります)ふと思い出してみる。

 自分が今まで一番つらかった時期、周囲の人は、たいてい「気にしすぎ」「気の持ちよう」「がんばれ」と言っていた。その言葉は当時の私に対して、精神的なケアにはなっていなかったのだと思う。その言葉を発した人が悪いのではなく、その人が発する言葉そのものに効果がないと言う感じだ。
 簡単に言うと、捻挫をしている患者に風邪薬を処方しても何の効果も無いのと同じことだ。

 周囲の人々が、その言葉をかけてくれたやさしさや心配は切に理解できたし、その意志を無碍のものにするような事はしたくなかった。しかし、それは、当時の私に伝わって、具体的に効力を発揮する言葉というものではなかったのだ。現に、自分が立ち直れていなかったから。

 内実の伴った言葉は人に働きかける。そうでない言葉はただのアナウンスの繰り返しと同じで、決して人を変えない。

 私はそう言われること自体が苦しかった。苦しくて苦しくてどうしようもなかったときに、私が一番大好きな作品と出会った。
 今の自分がなんとか人間としてやっていけてるのは、この作品と出会った事が大きい。あまりべた褒めするのは宗教勧誘のようなので避けたいし、皆が皆この方法で立ち直れるとも思わない。ただ、私の場合はそうだった、というだけだ。

 なぜこの作品が私を変えたのかいまだにわからないけれど、多分それを探すために生きている、のかもしれない。



 苦しかったときに不可解な言葉があった、今でも不可解だと思うのは、

「みんなそうだよ」「みんなそれぐらいがんばってるよ」

………みんなって、どこにいるんだ?
「みんな」って大抵、自分+その周囲の人せいぜい5〜10、20人ぐらい、もしくは自分が属しているサークルとか職場ぐらいの人々でしかないような気がするんですが?

 この言葉を姉から言われたりすると、言いたい事はわかるのだけれども「う〜ん…微妙…」と、不快感が残る。

 それは、何故かというと、これまで自分が学校と折り合いがつかなくて苦しかったこととか、友人関係が苦しかったりしたこと、これまでの自分をつくってきた全てのつらい物事、そして、その出来事からの呪縛をなんとかして自分なりに消化しよう、という思考を獲得するまでに至るまでの、途方もない道のりが、その言葉によって全て無化されてしまうような、無力感を私は覚えた。同時に、この言葉は危険だと思った。

 いや、ほんとに、「みんな」ってどこにいるんだ?

「みんな一緒だからがんばれ」と言いながら、そのくせ、「個性を持て」とか言う人がいっぱいいるんだから、こんな矛盾にさらされたメッセージしかない中で、あるのかないのかもわからない、未来に向かって毎日お尻叩かれてたら、そりゃ矛盾にさいなまれて、若者や子供が鬱になっても仕方がないよな、とも思う。
(そういえば確か、村上龍のエッセイ本の中に、個性化を強制するという矛盾、という題がついたエッセイがあった。我ながらうまいタイトルだな〜、と思ったものだ。本当にそう思う。)

 自分は、少なく見積もっても多分15年ぐらいは先だと思われるが(笑)たとえ子供ができても、この言葉に苦しんできた私は、「みんなやってるからお前も(無批判に)やれ」とは、言いたくない。

 その言葉は、一種の残酷性を帯びていて、その人が自分を肯定する機会すら潰す可能性があるから。



この記事が、同じような経験をした方のなにかの参考になれば、幸いです。
posted by 鉄1 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | MYSELF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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