2006年06月05日

Aから始まる大事なもの その1

私の好きなものは、A(後T もかな?)で始まるものが多い。

A→AKIRA
A→Ayu


だったり。ってまだ二つしか書いてませんが(笑)

これは、この間 ブラジリアン・ガールと不器用なパウメレンセの物語 の、palmeirense さんから頂いた、ありがたいTBへのお返しエントリのつもりです。
お読みしてくださっている方々にも、ちょっと前置きが長くなってしまうのですが、おつきあいしてくださると、うれしいです。

(内容少しだけ改変しました)◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


最近、辛いニュースを見ると、そのニュースで報道されている人のことが、すごく手に取るようにわかるというか、まるで自分がその人になったかのような心境になってしまう。
差別に遭うフリーター・ニート・イジメ・ホームレスしかり、別になるのが怖いというのではなくて(怖いのもあると思う)、もし自分がそうなったとしたらどれほどの苦悩と苦痛と悔しさと希望を持つことすらもできず、人々からてんで見当違いに疎外されて、毎日自殺を決意しそうな心境になるのかもしれないのかと、思うだけで発狂しそうに恐ろしくなるからだ。
それに、この日本では、自分が知らないモノに対して、ステレオタイプな理解…別名「相手そのものを見て判断するのではなく、相手に貼られたレッテルで判断する」人々がまぁーだまだいっぱいいるので、
そんなステレオタイプな理解と、その押し付けには本当にうんざりする。
それは決して、 「理解」などではない。

それは往々にして、単なる主観の押し付けと安易なコミュニケーション手段(いわゆる 話のネタ)の再生産、果ては相手を無視した金儲けに加担するものでしかないのだと思う。

だから私はただつくられただけの、さらに言うとしたら捏造されただけの、「流行り言葉」「流行の音楽」「流行のマンガ」が 大キライだ。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

palmeirense さんは、尾崎豊に関して、こう言っておられます。

そもそも、そうやってサブカルに逃げ込むこと自体、テレビによってインスパイアされたことではないのか。つまり、すべてはグルなのである。


これは、最近本当に本当に痛感する事です。
多くの場合、サブカルに逃げても出口というか展望がないのは、そこにも終わりなきマッチポンプがあるからなのかもしれません。一時的な逃避は出来るけど、では自分といえば?少しもラクなんかになってない。ただ夢から覚めた後の、何も変わらない自分がそこにいるだけ。

目に映る21世紀 のRyotaさんが指摘しておられるように、日本の音楽、ファッションと続いてオタク趣味もそのマッチポンプな、自閉したループの消費世界の中に大部分が呑まれつつある気がします。


これがホントの広告批評:DRe:ミンティア再び

>
僕らの日常を理不尽で灰色なものにしているらしい仕事や職場の辛さは、「それを解消しますよ」と唄う消費社会と結局つながっている訳だよね。だとしたら、その広告はまさに「マッチポンプ」。



こんなマッチポンプな構造に気がつかないまま、何かに憤り、悲しいとさえ思う感情もその構造の中に組み込まれる。そんな事をなんらおかしいとも思わされないまま、なぜか満たされない孤独な自分を、たった一人で抱えているとしたのなら、それこそが本当に辛い事です。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

話はすこし変わって、私が、もう好きという次元を飛び越えて、自分にとって決して代わりが効かないものに近いんじゃないか、と思うほどに大好きな AKIRA というひとつの作品についてです。

こんなマッチポンプの広告ばかりが満ち溢れる街中とショップで、思ったのが80年代当時に、映画公開前にアキラがぶわーっと宣伝されていた当時にアキラの情報、つまり評論やぎょうぎょうしい宣伝文句や、周囲の口コミを享受してアキラに触れていた、としたら
私が認識した「アキラ」という作品の印象はめちゃくちゃ異なっていたのではないかと思った。

そりゃ、ファンなので新聞広告とかグッズは、ちょっとは興味あります。
復刻された映画のパンフレットまで買ってしまいましたし(笑)
(どうでもいいけど80年代当時河合塾のCMで鉄雄のシーンが使用されていたらしくて笑えるのですが。不良少年をんなとこに使うなよがく〜(落胆した顔)!)

ある意味、私はブームからも口コミからも評論からも遅れてアキラを享受することによって、「アキラという作品そのもの」(なんか禅問答みたいだな)を純粋に感じ取る事ができたのではないかと思っている。
そしてそれを、後悔していない。


そしてそのためには、社会(=テレビ)の側で規定している、「何が正しいか」についての公理を一旦保留しなければいけないこともある。これは、かなり辛い。退路を自ら断つことになるからだ。


退路を断つ、ということは何らかの形で答えを出さない限り先に進めない、ということでしょうか。

私の場合は自ら退路が立たれてしまったというか、一度どうしようもない状況に陥って、書くのも辛いことだけれど、その頃家族とも仲が険悪で、親よりも心を打ち明けていた親友も仲違いして失い、学校も街もぜんぶぜんぶ、大嫌いで、孤独感と疎外感と劣等感とで自分はどうしようもない、生ゴミが詰まっただけの汚い袋のような人間なのだとしか思えないときがあって、その日一日中自殺を考えたりした。
何故生きるのかわからなかった。生きるために食物を摂取する意味もわからず痩せ細った。
朝目が覚めるのも辛かった、どうしてこんないやな一日が始まって、自分のような人間が今日も無駄に生きているのだろうかと毎日考えた。


私の場合「何が正しいか」という公理を保留したというよりも、何が正しいかもわからないまま、言葉にできないほどの疎外感と、孤独で、自我は崩壊しかけてぎりぎりの所に立っていて、ともいえるような、鬱などという一言では到底言語化できないような、文字通りのまっ暗闇と絶望の中で、もう何も見たくなかった のだと思う。

そんな、到底言語化不能の苦しみをどうすればいいのかなんて、どう対処すればいいのかなんて、テレビにも新聞にもどんな雑誌にもそこに至るまでに読んだどの本にも、
私が求めていた答えの片鱗のようなものも、爆発的なエネルギーを持って私を揺り動かすものも、見当たらなかったなかったので、退路が立たれたというより、もう心理的に頼れるものすら何もなかった という事かもしれない。
少なくともテレビを見て他人をうらやましがったり、ボーッと自分を忘れるために見る、だなんて、そういう気力すら全くなかった。


けれど、そんな今まで生きてきて、考えうる限り最大の問題と壁と真っ暗闇にいたまさにそのときに、AKIRAと出会った。

AKIRAという作品に触れて、いろいろな事を自分で、自力で、頼りないながらも自分の意志と感覚だけを頼りに調べだすようになってから、自分のモノを見る「目」と対象の間に、いかに様々なものが挟まり、目を曇らせにごらせ、私を邪魔し、「世界」そのものを認識する事を疎外していたのか、以前に比べたら比べ物にならないぐらいによくわかるようになった。
そうして初めて、今のテレビの能天気さとネットの助けもあって、異常さがわりと具体的に、わかるようになってきた。


それに、自分の手で、自分の意志で決め、手に入れることができたものでなければ、ひとはそれを大事にしようとは思えない。
常に受動的で、もらうだけで、様々に加工されフィルタリングされてしまった「イメージ」に耽溺し、決して外に出ることはなく、そんな堂々巡りの構造の中にいることもわからないままに「自己実現」だの「自分探し」だの、しようと思ったままだったら、もっと大きな構造を俯瞰してみる目線がなければ、おそらくそんなことさえわからなかっただろう。

今現在にしても、当時のどん底(あれは今思ってもそうと呼ぶしかない)だったときからにしても、どうしてAKIRAという作品にこうやって反応したのかの理由はよくわからないし、探索中だけれども、この作品は私に「自立」の意味と、その芽のようなものと、ある種の希望のようなものをを教えてくれたのではないかと思っている。

もちろん、今だってAKIRAのおかげで人生がバラ色になりました!!なんていうつもりはない。そんなこと絶対ありえない。全くない。
わかることが増えたから、見えてしまうがゆえに辛いことだって、沢山ある。
自己嫌悪だってあるし、自分が果てしなく無能力な、生ゴミみたいな存在にしか思えないこともある、迷いだって当然あるし、人によってはそれはただ依存してるだけじゃん、と言うかもしれない。(実際一度言われた)
でも、アキラがある前だったら何か、みんなは対して好きじゃないものを好きな自分に、そう言われてしまったらきっと、無理にでも相手が、みんなが嫌いだって言うしこれはたいしたことなくってキライなんだ、ダメなんだ、って思って卑下していただろう。
無理して他人の歩調に合わせて、どうにもならなくなって、自分が全て悪いのだと思いウソばかりついて、自分を追い込んで耐え切れなくなって、本当に自殺とかしていたかもしれない。


今の私の心境が、単なる強がりなのか開き直りなのかはわからないけれど、今はただ、異なる意見を持っていて、私に「そんなのおかしいよ」って言う人がいても、ある程度「そうだね」 と認められて、感情はあるので時に、頭に来る事はあるけど、だからって自分がなにかを好きだと思う心まで粗末にする事はないじゃないか、と思う自分を感じている。
自分で自分にすごいな、といえる所は、今の所そのへんだけかもしれない。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



いまでは、何故メディアやテレビ、思い込み、因習、レッテル…、それらのものから思考が開放され、またどうしてそれを、そこまで必要とすることができるのですか?と尋ねられたとしたら、



そこにアキラがあったから と答えようかと思っている。




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




上ではかっこよく言ってる風に見えるかもしれませんが、
実はものすごく恥ずかしいです、このエントリ。

posted by 鉄1 at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | MYSELF | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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