2006年08月28日

ありのままのまなざし。

どうして、世の中の人はカテゴリ分けをしたがるのかな、と考えてみた。
自分も含めて。

察するに・・・それは楽だから。
ワケのわからない、まったくの「他者」に対して裸で向かい合うよりは、「この人はこういう背景があってこうなんだよ」とあらかじめ了承した上で、話しをしたりするほうが楽に決まっている。

が、それは、本当の理解と呼べるのか?

逆に言うとすれば、それは陳腐な、中身のない人工的なハコモノを見てるだけで、「理解」したような気になってるだけなんじゃないの?
レッテルを貼って、分類して、満足してるだけじゃないの?
レッテルを自分にはりたがったり、分けられたがったりする人は、結局自分がないからそこに固着するんじゃないの?
なんでレッテルをはりたがるかっていうと、裸の、ナマの人間が怖いからだよね。
貼ったほうがラクだからだよね。

でも、他人と接するときにはまったくの裸の自分で接するということも難しいわけで・・・じゃああたしはいったいどうしたらいいの?

私はいつもそんなジレンマの中にいた。

けど、彼氏ができて、彼という大事な人が出来て、私はすこしづつだが変わっているみたいだ。

前より人が怖くなくなって、すこしは余裕が出来た。
そして、もうひとつ(というかそれ以外にもたくさんあるけど)彼を大事だと思う理由。

彼は、私のことを鏡みたいによく映してくれる。

ひょっとしたら、私は彼を見ているようで、実は自分のことを、彼を通して確かめているだけなのかもしれない。
でも鏡がないと、自分の姿を把握することが出来ない。
だから、他人は大事なんだ、と初めて、心の底から、”実感”できた。

けれども…相手を、自分の目の前にいる人間のカテゴリ分けしているうちは、決して本当の「理解」にはたどり着けないと思う。

自分を、カテゴリ分けではなく、ほんとうの、ありのままのまなざしで見つめてくれる人を存在を感じ取ったとき、人は初めて変われるのだと思う。
強制ではなく、地に足を着けながら、自然に。

歪に整えられたものは、どこかで必ず壊れてしまう。
でも、自然に整えられたものは、まるで水の流れのように穏やかで、なめらかに、ずっと続いていくだろう。


参考図書:藤原新也「渋谷」
posted by 鉄1 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | Daily Dialy | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なんでもだきしめてくれるぬいぐるみ。

ほんと、久しぶりのエントリですね。
個人的な事情もありますし、情報量を減らしたかった、というのもあります。

RSSやリンクなどに追加して、見てくださった方々へ、一ヶ月ほったらかしにしていてすいませんでした。
これから、また更新のほう、再開いたします。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


ネオリベトークブログから。
相変わらずこのブログ、題名がカッコイイ!
何かを守るのではなく、すべてを実験してみようか って、なんかいい言葉じゃないですか?

で、ネオリベトークブログさんの記事から、
現実世界のバーチャル化と題されたリンクからのブログを見ました。

Munchener Brucke
2006-08-16 加藤紘一元自民党幹事長宅焼かれる
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20060816/p1

ここで話題になっているのは、もちろん加藤紘一のお宅が焼かれたことも重要なんだけど…前々から私が気になっていた、
現実世界とネット、というだけではなく
ネット上でも本音と建前が分裂する現象について。
分裂というより、最早統合不能の分断、自己矛盾の認識不能病とも呼べるのかもしれない。

人間である以上、矛盾はある。私にだってきっとある。
ただ、ここのブログで取り上げられている日記の方々の文章を
読んでいると、たとえばmixi上ではじめて
この方々の日記に触れたとすれば、
この人たちについて何も知らない私は、
この人たちの日記について触れる限り、「悪人」だとは思わないと思う。むしろ、世の中のことについて深く考え、憂えている「善良」な方々だ、と思うのではないだろうか。

ただ…この、うまく言葉には表しがたい違和感はいったいなんだろう。
いくらなんでも、家を失った人に
「ざまーみろ」とかそういう発言はないんじゃないかな、と。
もし自分の親友がこういう発言をしていたら、私はやめたほうがいいよ、と言うと思う。

ある意味、家を焼かれた加藤氏はスケープゴートになっているのではないだろうか?
日々、目に見えない部分で澱みを抱え、鬱積している何かを抱えている人々が、このような事件があると、「ざまーみろ!」と、まるで王様のように、尊大に、相手を裁断し始める。

王者の嗜虐、ふとそんな単語が浮かんでくる。
そこには慈悲なんていうものはない。
ただ頼りない虚栄の上で必死に自分を保とうとしている王モドキがそこにはいるだけだ。


話がそれた。

それにしても、はてな等ブログ界隈では、いわゆる「www用」の人格を演じ、mixiではつい本音が出てしまう、という現象はいったいなんだろう?

私にもそれはあると思う。
ただ、自分の場合は、備忘録とか、後ブログではちょっと公開したくないような、自分の私的な事を書いてるような気もする。
特に、恋愛関係はそうか。だって恥ずかしいし、もともと個人的な性質が一番強いのが恋愛なんだから、堂々といろんな人に公開するのは野暮に過ぎると思う。

どうしてこんな風に分けるのかというと、たぶん、ネットメディアの性質のせいもあると思う。
パソコンやインターネットがある前は、表現手段って言うと日記ぐらいしかなかった。
辛いことや悲しい事があって、それを受け止めきれない自分を、冷静に見つめ、行き場のない感情をなだめるために、書いて表現したりしていたのだと思う。
今日記を書いて、自分の感情を放出する人はあまりいない。
それは、パソコンっていう、便利で快適な道具ができたから。
書くよりも、コピペしたほうが早い。
自分で深く考えるよりも、インターネットで適当に他人の言葉
をアレンジして編集して、「自己流」にしてしまったほうが早い。
そういうのを、他人の言葉に取り込まれる っていうんだけど、これだけ言葉の氾濫する時代には、取り込まれていることすらわからないぐらいに取り込まれてしまう。



また話が長くなってしまった。
kechackさんのブログで取り上げられていた人たちとほぼ同世代の、自分は、宛て推量過ぎないけどあることが原因ではないかなと思っている。

それは、mixiの所属感、そして閉鎖性にあるのではないだろうか。

選ばれたんだ!私!ドキドキ!
しかもここは仲間以外は誰も見れないんだって!私が私自身のために、何だってできる!
あ、コミュニティにはこんなに人が!嬉しい!私のトモダチがいっぱいいるよ!

自分がハイテンションになってるときの心境を敢えて再現したらそんな感じだろうか。
相手は絶対に自分を拒絶しない。
まるで海みたいに、ありのままの自分をやさしく受け入れてくれる。
でも、それは、結局自分に忠実に動くモノとしてしか相手を見ていない。
いわば自分の延長線上の存在でしかないわけで、人形と大差ないのではないだろうか。
人形と大差ないから何言ってもいいし、気軽にポイって捨てれるし、時にはやわらかくなんでも受け入れてくれる。

自分の目の前にいる相手は「タイセツナヒト」か、もしくは前述の、「単なる無機質な感情もなにもない人形」 か、どっちかしかない、というような、0か1かの二者選択しかない、歪なコミュニケーション。

ひょっとしたら、余裕ないときの自分も含め、こういう人形的なコミュニケーションが、いまや主流となっているのだとしたら…今の美少女フィギュアやUFOキャッチャーの隆盛と、そこに感じる一抹の違和感の原因は、理解できない事でもない。

posted by 鉄1 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会…Ourselves | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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